ウォーターハウス記念館は、ヴォーリズ合名会社により1913年に建築され、当時、早稲田大学英語科の講師として来日したウォーターハウス(Paul.B.Waterhouse)の一家が、W.M.ヴォーリズと共に伝道活動を行なった約6年間に社宅として居住していた住宅です。
ウォーターハウス記念館は、ヴォーリズ合名会社により1913年に建築され、当時、早稲田大学英語科の講師として来日したウォーターハウス(Paul.B.Waterhouse)の一家が、W.M.ヴォーリズと共に伝道活動を行なった約6年間に社宅として居住していた住宅です。
ウォーターハウスは、ヴォーリズに出会い、その人格と働きに共鳴し、近江ミッションの活動に協力しました。ヨットの操縦が巧みであったウォーターハウスは、琵琶湖の湖畔伝道船ガリラヤ丸の船長となりヴォーリズと湖畔の村々を巡回伝道しました。
ウォーターハウス記念館の周辺に、1913(大正2)年に吉田邸とウォーターハウス邸、 翌1914(大正3)年にヴォーリズ邸、1921(大正10)年には旧近江ミッションダブルハウスが建てられ、そしてこれらの住宅に囲まれるようにテニスコートが設けられ、近江八幡市池田町に広大な洋館街を形成しました。現在、ヴォーリズ邸は取り壊され吉田邸とウォーターハウス邸、旧近江ミッションダブルハウス、旧近江八幡家政塾舎のみが残っています。
ウォーターハウスの妻ベッシーは、ウォーターハウス邸で料理研究会を始め、近江ミッション婦人部の料理教室が開かれるようになりました。その後、吉田悦蔵の妻吉田清野とともに近江ミッションの婦人部の各種の活動が始まり、ウォーターハウス一家の帰国後には、料理教室は吉田清野により本格化し吉田邸内等で近江家政塾が創設されました。
ウォーターハウス邸は住宅としての利用目的を終えた後も、その内部空間の広さ、テニスコートの場所を小さな運動場としても使用できることから、 1933(昭和8)年に創設された近江勤労女学校や、それを前身とし1947(昭和22)年に新制へと移行した近江兄弟社女学校の校舎として使用されました。